今回のブログのテーマは、「自己に向かって見極めよ」です。
この言葉は、臨済宗開祖の臨済義玄の言行でもあります。
臨済禄を読んでみると、「うん、うん、そうだよな~」と頷いてしまう箇所がちりばめられているので、感心してしまいます。
この世は幻であるとは、仏教において言われる事ですが、自分の心の中を映し出している物が、現実と言われる今目の前の世界です。
自分の心の中で、心象に描いた事が投影された世界が、目の前に広がっている世界で、私たちはそれを現実と呼んでいます。
しかし、人間の限られた目では、自分が産み出したとは思えずに、他人がそこにいると認識してしまいます。
自分と他人と区別してしまいますが、実は他人は自分の心象が描き出した人物で、ありのままの姿ではありません。
自分の内側が描き出した架空の人物で、実態はありません。
しかし、現在人はそれが理解できない。相手が居て自分が居ると思ってしまうと、相手から傷つけられた、酷い事をされたと自分が被害者的立場をとることになるのです。
人から攻撃を受けたと感じるから、自己防衛したくなる
自分を守らなければならなくなるので、自分の正当化が始まります。
自分の価値観によって裁き、相手はこうだからいけないと「悪」に仕立てあげ、責めるのです。
これが、自我の仕組みなのです。自我は自分の存在が脅かされると、必死になって対抗します。
社会的な価値観や道徳論を持ち出して、自分は悪くないことをとことんアピールしていきます。
しかし、実はこの責め裁くという行為は、自分が消されてしまうという「恐れ」から発生しています。
恐れから出た行動はうまくいかない
なぜなら、心象が恐れているから、未来にもその恐れている事を実現化してしまうからです。
必ず嫌われてしまい、人と対立を招き、トラブルや、厄介な事ががどんどん発生するのです。
外側の人を責めるのではなく、自分の内側の善悪論、上下論をはやく中和して、バランスをとることが大事なのです。外側は、自分が作った幻なのですから。
幻に向かって、どんなに変てみせようと手を尽くしても、変えることはできません。それは幻なのですから。自分の内側の価値観を変えるしかありません。
しかし、人は長い間これが分からないのです。
「怒るのはいけないことだ」と怒っている矛盾
「人を責めるのはいけないことでしょう」と人を咎めている矛盾
「平和を守れ」と糾弾し、不穏状態を作っているている矛盾
暴れる自我は、こんな矛盾にも気がつけません。いい年をして気がつけません。
目の前の事は自分の心が写った鏡です。
あなたが心が平穏でないから、平穏でない現実が起こっているだけ
自分の目の前の幻に惑わされずに、目の前の不調和な出来事は、すべて自分の内側の決め事による「咎め」や「恐れ」から起こることに気がつき、バランスしていくことです。
自我に気がついてください。どんな事が起きても、すぐに自分の内側を観れるように。
自分の内側がすべての現象を作っているのです。
赦すことが出来れば、すぐに目の前の現実が変わります。
これからの未来人は、いつでも自己に向かって、見極める事が大切です。