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シンプルな鉄則、自分のままで生きる

言葉の力

言葉には力が在り、人を勇気づけたり、感銘を与えたり、慰めたりする事が出来る反面、傷つけたり、深い悩みの淵へ落とし入れたりする事もできます。

現代でも言葉は、普段使われる話し言葉から、ツィッター、SNS、真言やマントラまで、多大なる力、影響力を持っています。

古今和歌集仮名序では、「やまとの歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」と表していますし、新約聖書も「初めに言葉がありき。言葉は神と共にあり」と始まります。

洋の東西を問わずに、古代から人は言葉の強力な影響力を捉え、表してきたのでしょう。

そんな中で、現代間違った解釈で捉えられている言葉を挙げてみます。

わがままとは、「我のまま」という意味

言葉の成り立ちや語源には、様々な物がありその意味の深さに、なるほどなと魅了されるものが数多くあります。

まず悪い意味と捉えられている「わがまま」。

日本人ならば、ほとんどの人がわがままはいけないと思っているのではないでしょうか。

わがままとは我のまま、つまり自分自身のままであることということから来ています。

自分自身を偽って、人の価値観を受け入れて周りの眼を気にして生きていくと、いつの間にか自分の人生を生きれなくなります。

だんだんと、周りからの意見に振り回されて、我慢を重ねてストレスを貯めていく、脇役の人生を生きる事になっていきます。

自分自身のキャラクターを生かせなくなるのです。

社会的な価値観は、自分自身で生きるという事を嫌うのです。

ですが、人は自分以外のものになろうといくら努力しても難しく、フォームを改良されたピッチャーのごとく自分の投球ができなくなってしまうのです。

世界中で自分だけが自分キャラの主役として生きれるのですから、「わがままはいけない」だけでなく、「我のままでいる」のは良い事と捉えなおして、偏った価値観を中和していくのです。

わがままは悪い部分もあるけれども、それと同じだけ良い部分があると等価値化してバランスをとるのです。

人生の成功の極意をお伝えします

どちらかに偏らなくなってから、改めてどちらかを選択することが出来るようになると、良い方向に自然と導かれるのです。

これは本当ですが、「物事はこうあるべき」「こうあることが、正しい」と価値観に捉われてなかなかできないことなのです。

ブログでお伝えしても1000人中1人できるかどうかくらいの確率です。

同じようにこんな事も等価値化してみましょう

「いいがげんな人」

いいかげんの語源は、良い加減です。いい塩梅ということです。

熱すぎても、ぬる過ぎてもお風呂は入れません。多すぎても少なすぎても良くないのが運動です。

何事も、バランスが大事なのです。その絶妙なバランス加減を表現していた言葉なのですが、現在では悪い意味に捉えられています。

「あきらめてしまう人」

諦めるの語源は、あきらかになるです。真実、真理、悟りを意味する言葉です。

諦めた直後に不思議と道が開けることを経験された方は多いかと思います。

アメリカの西武開拓者たちは、諦めた直後に道が開けることを、「クロス・ザ・リバー」、川を渡ったと表現していました。

「あきらめる」はただ断念するのではなく、物事が因果や縁によって成り立つ事を「あきらか」にして、拘らずに受け入れるという事。

諦めるとは、執着を手放し、あきらかに極まっていくことなのです。

「どっちつかずの人」

決めてやる事、目的を持ってすること、といわれてきた私たちは、どっちでもいいという言葉に反感を持つ方が多いはずです。

しかし、「どっちでもいい」は「どちらも良い」という事で、真実を突いている言葉なのです。

片方に執着しないで、良いも悪いも、どちらも実はいい面があるということが、「どっちでもよい」という拘らない状態です。

とちらでもいいなと思えるようになってくると、だいぶ自分の内側の執着や否定が取れてきています。

こうでないといけないと拘れば拘るほど、辛くなるのです。

価値観を手放すとは、良い事と悪い事を同じ価値にする作業です。

人の価値観で生きることも良いけれども、自分の価値観で生きるのも同じく良いので、全ての価値観を、一度等価値化してから、選択することです。

こう書くと、「私は自分の価値観で生きているから大丈夫」と思った人は要注意です。

反対側の価値観だから良いでは、一方に偏っています。つまり逆に振れただけです。

そうではなく、自分の価値観で生きる良さもあるけど、他人の価値観で生きる良さも同じ位ある、なのです。その価値の比率は50:50、これが等価値化です。

50:50なので、どちらも同じ価値ですから、どちらを選択しても同じ事です。

つまり、そんなことは「どっちでもいい」のです。

その状態になることを、釈迦は中道に入ると言ったのだと思います。

全ての価値観を「こうでないといけない」から「どちらでも良い」にする

「物事はこうあるべき」という執着をなかなか手放せないのは、それが正しいと思っているからです。

人は間違っていると思ったことを手放すのは出来るのですが、正しい事を手放す事は出来ないのです。

これが正しくて、これが間違っていると思うから、そこに悪を生み、悪を駆逐せねばと否定が生まれるのです。

この場合、「悪の良さも同じくらいある」と捉えられるかが、等価値化できるかの分かれ目です。

立場を変えた悪が正義なのです。相手は自分と同じ正義なのです。悪と正義は同じ物です。

パワハラがいけない、モラハラがいけない、コンプラに沿わないといけないと、こうでないといけないと一方的に偏りふくらみ続ける社会の価値観を受け入れていると、善悪の対立を産みだし、制限の中で縛られて、自在に生きれずに苦しいのです。

あなたはそれぞれの良い部分あると、捉えられますか?(笑)

常識を疑う

誰かの決めた、社会の価値観を取り入れて、脇役として生きるか、ありのままの自分を生きるか、自分を縛っているのは、他の誰でもなく自分自身なのです。

こんな自分が好き、と言えるくらい自分のキャラを生ききりましょう!

それぞれで、そのままでいいのです。

こうだと決めた瞬間から悪が見え、自分の思い通りにしようと戦いが始まります。

人間、思い通りにならない事が一番苦しいのです。

常識や価値観は、つかんだら手放して終了です。

つかんだら手放す、つかんだら手放す。この繰り返しです。